『オリエント急行殺人事件』との出会い
海外ミステリの古典であり、これは誰もが知る名作でしょうと言われ続けてきた作品に、ようやく出会うことができました。アガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』です。光文社古典新訳文庫版で読んだのですが、まさかの展開に驚きつつも、今この瞬間、名作との出会いに深く感動しています。
ミステリ好きなら必ず通るべき道とも言われる本作ですが、有名すぎるがゆえに「いつか読もう」と後回しにしていました。でも、実際に手に取ってページをめくり始めると、なぜもっと早く読まなかったのかと後悔するほどの面白さでした。1934年に発表されてから90年近く経った今でも、まったく色褪せない魅力に満ちています。
書籍情報
本作は、イギリスの推理小説家アガサ・クリスティーによって1934年に発表された長編推理小説です。原題は「Murder on the Orient Express」で、著者の長編としては14作目、名探偵エルキュール・ポアロシリーズとしては8作目にあたる作品です。
今回読んだ光文社古典新訳文庫版は、2017年4月に発売されました。訳者は安原和見さんで、ページ数は436ページ。価格は990円(税込)です。この文庫版の特徴として、しおりに登場人物一覧と客車の部屋割りが描かれており、複雑な人間関係を把握しながら読み進められる工夫がされています。
アガサ・クリスティーは1890年にイギリスのデヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなるまでに100作以上の作品を生み出した「ミステリの女王」です。本作はその中でも特に人気が高く、何度も映画化やドラマ化されている代表作の一つとなっています。
あらすじ(ネタバレなし)
物語の舞台は、ヨーロッパを横断する豪華列車「オリエント急行」です。名探偵エルキュール・ポアロは、イスタンブールからロンドンへの帰路にこの列車に乗り込みます。乗客たちは国籍も階層も異なる、一見何の関係もない人々でした。
ところが列車が大雪のために立ち往生した翌朝、一人の富豪の刺殺体が客室で発見されます。被害者の部屋は内側から鍵がかけられており、完全な密室状態。しかも身体には12箇所もの刺し傷がありました。
列車が雪で動けない以上、犯人は乗客の中にいるはずです。しかし調査を進めるポアロの前に立ちはだかるのは、全員が完璧なアリバイを持っているという事実でした。果たしてポアロは、この不可能とも思える謎を解き明かすことができるのでしょうか。
まさかの展開に驚いた読書体験
本作を読んで何より印象的だったのは、その予想外の結末です。「有名な作品だから結末も知っている」という方も多いかもしれませんが、私は幸運にもネタバレを避けて読むことができました。そして、真相が明らかになる場面では本当に驚きました。
ミステリ小説として、本作は非常に丁寧に構成されています。ポアロが一人一人の乗客から話を聞いていく過程で、少しずつ違和感や疑問点が積み重なっていきます。読者としては「この人が怪しい」「いや、あの人かもしれない」と推理しながら読み進めることになるのですが、最終的にポアロが示す真相は、そのどれとも違う衝撃的なものでした。
クリスティーの筆力の素晴らしさは、単にトリックが斬新だということだけではありません。登場人物たちの人間性や、彼らが抱える感情や過去が丁寧に描かれており、真相を知ったときに「そういうことだったのか」と物語全体への理解が深まる構造になっているのです。
光文社古典新訳文庫版の魅力
『オリエント急行殺人事件』は様々な出版社から翻訳が出ていますが、今回私が選んだ光文社古典新訳文庫版には独自の魅力があります。
まず、安原和見さんによる新訳は非常に読みやすく、現代の読者にもすんなりと入ってくる文体になっています。古典ミステリというと古めかしい文章を想像するかもしれませんが、この新訳では自然で分かりやすい日本語で物語が紡がれており、すらすらと読み進められました。
また、前述したように、しおりに登場人物一覧とオリエント急行の車両図が描かれているのが大変便利です。本作には多くの乗客が登場し、それぞれの部屋の位置関係や移動が重要な意味を持ちます。読みながら「この人はどの部屋だっけ?」と確認できるこの工夫は、読書体験を大きく向上させてくれました。
さらに巻末の解説も充実しており、作品の背景や当時の社会情勢、クリスティーの創作過程などが詳しく書かれています。本編を読み終えた後に解説を読むことで、作品への理解がさらに深まりました。
名探偵エルキュール・ポアロの魅力
本作の主人公である名探偵エルキュール・ポアロは、アガサ・クリスティーが生み出した最も有名なキャラクターの一人です。ベルギー出身の元警察官である彼は、几帳面な性格と卵型の頭、立派な口ひげがトレードマークです。
ポアロの推理方法は、現場を駆け回って証拠を集めるタイプではありません。彼が重視するのは「小さな灰色の脳細胞」、つまり論理的思考と心理分析です。乗客たちの証言の矛盾点を見抜き、彼らの性格や心理状態から真実を導き出していく過程は、読んでいて知的興奮を覚えます。
特に本作では、ポアロが最終的に二つの推理を提示する場面が印象的です。一つは表面的な証拠から導かれる結論、もう一つは人間の心理や感情まで考慮した真実。どちらを選ぶかという選択は、単なる謎解きを超えた人間ドラマとしての深みを作品に与えています。
密室殺人というジャンルの魅力
『オリエント急行殺人事件』は、密室殺人ミステリの傑作として知られています。雪で立ち往生した列車という限られた空間、内側から鍵のかかった部屋、そして逃げ場のない容疑者たち。これらの要素が組み合わさることで、極限の緊張感が生まれています。
密室ミステリの面白さは、「不可能犯罪」をいかに解き明かすかという点にあります。物理的に不可能に見える犯行を、論理的に解明していく過程は、パズルを解くような知的快感があります。本作でも、完璧に見える密室がどのように破られたのか、その真相は読者の予想を大きく裏切るものでした。
また、列車という閉鎖空間が舞台であることで、登場人物たちの心理的な緊張感も高まります。犯人は自分たちと同じ列車に乗っている。誰かが嘘をついている。そうした疑心暗鬼の中で進む捜査は、ページをめくる手を止められない面白さがありました。
1930年代の世界情勢と物語の背景
本作が発表された1934年という時代背景も、物語に深みを与えています。第一次世界大戦後のヨーロッパは、まだ戦争の傷跡が色濃く残る時期でした。オリエント急行という豪華列車には、様々な国籍の人々が乗り合わせていますが、それぞれが複雑な歴史や立場を背負っています。
作中では、アメリカで起きた誘拐事件が重要な鍵となります。この事件のモデルとなったのは、1932年に実際に起きたリンドバーグ愛児誘拐事件だと言われています。当時のアメリカ社会を震撼させたこの事件を背景に持つことで、物語にリアリティと重みが加わっているのです。
また、国際列車という設定により、異なる文化や価値観を持つ人々が一つの空間に集まります。その中で起きる殺人事件は、単なる個人的な恨みの問題を超えた、より普遍的なテーマを含んでいます。
正義とは何か—作品が問いかけるもの
『オリエント急行殺人事件』は、単なる謎解きミステリに留まりません。本作が長く読み継がれている理由の一つは、「正義とは何か」という深いテーマを扱っているからです。
真相が明らかになったとき、読者は一つの選択を迫られます。法律に従うべきか、それとも人間としての感情や道徳に従うべきか。被害者が犯した罪、そして犯人たちの動機を知ったとき、単純に「犯罪は悪」と断じることができるでしょうか。
ポアロ自身も、この事件の真相を知って大いに悩みます。彼は探偵として真実を明らかにしなければなりませんが、同時に一人の人間として、関係者たちの気持ちを理解してしまうのです。この葛藤が、作品に深い人間性を与えています。
正解のない問いに向き合わされることで、読者もまた自分自身の価値観を問い直すことになります。これこそが、本作が時代を超えて読み継がれる理由なのだと感じました。
何度も映像化される理由
『オリエント急行殺人事件』は、これまでに何度も映画化、ドラマ化されてきました。1974年の映画版では、アルバート・フィニーがポアロを演じ、アカデミー賞にもノミネートされました。2017年には、ケネス・ブラナー監督・主演による新しい映画版も製作されています。
また、日本でも2015年にフジテレビで三谷幸喜脚本によるスペシャルドラマが放送されました。舞台を昭和初期の日本に置き換え、オリエント急行を「特急東洋」に変更した翻案作品でしたが、原作の面白さはそのままに、日本らしいアレンジが加えられていました。
このように繰り返し映像化されるのは、物語の構造が普遍的で、時代や場所を変えても成立する強さを持っているからでしょう。限られた空間での密室殺人、多様な登場人物、そして意外な真相という要素は、どの時代の観客にも訴えかける力を持っています。
古典ミステリ入門としての最適さ
『オリエント急行殺人事件』は、海外ミステリや古典ミステリの入門書として理想的な一冊です。その理由をいくつか挙げてみましょう。
まず、物語の舞台が分かりやすく、状況が把握しやすい点です。列車という限られた空間が舞台なので、登場人物の位置関係や移動を理解しやすく、初めてミステリを読む人でも混乱しにくい構造になっています。
次に、ページ数が適度であることも挙げられます。光文社古典新訳文庫版で436ページと、読み応えはありながらも、長すぎて挫折するような分量ではありません。ストーリーのテンポも良く、飽きずに最後まで読み通せます。
そして何より、ミステリというジャンルの面白さが詰まっている点が重要です。緻密な論理展開、意外な真相、人間ドラマとしての深み—これらすべてが高いレベルでバランスよく配置されており、「ミステリってこんなに面白いんだ」という発見があります。
読後に感じた余韻と学び
『オリエント急行殺人事件』を読み終えた今、余韻が長く残っています。単なる謎解きの面白さだけでなく、人間の善悪や正義について深く考えさせられました。
本作から学んだことの一つは、物事は見た目通りではないということです。表面的な証拠や証言だけでは真実にたどり着けない。人間の心理や動機、背景にある物語を理解して初めて、本当の真相が見えてくる。これはミステリの中だけでなく、日常生活でも大切な視点だと感じました。
また、クリスティーの卓越した構成力にも感動しました。一つ一つの伏線が最後に見事に回収され、すべてのピースがぴたりとはまる快感。プロットの完璧さは、まさに職人技と呼ぶにふさわしいものでした。
さらに、古典作品の持つ力も実感しました。90年近く前に書かれた作品が、今読んでもまったく古さを感じさせない。それどころか、現代にも通じる普遍的なテーマを扱っているからこそ、時代を超えて読み継がれているのだと理解できました。
おすすめの読み方
これから本作を読む方のために、いくつかのアドバイスをしたいと思います。
まず、できればネタバレを避けて読むことをおすすめします。有名な作品なので結末を知っている人も多いかもしれませんが、真相を知らずに読む体験は格別です。驚きと感動を最大限に味わうためにも、事前情報は最小限に抑えておくことをお勧めします。
次に、登場人物の整理をしながら読むと良いでしょう。光文社古典新訳文庫版のしおりは大変役立ちますが、必要に応じて自分でメモを取るのも効果的です。誰がどの部屋に泊まっているか、誰と誰が顔見知りかなどを把握しておくと、推理がしやすくなります。
また、ポアロの推理過程を自分でも追いかけてみることをお勧めします。登場人物たちの証言の矛盾点や、不自然な行動に気づけるか。読者もポアロと一緒に謎を解く探偵になったつもりで読むと、より一層楽しめます。
まとめ—名作との出会いに感謝
『オリエント急行殺人事件』を読み終えて、改めて古典の力を実感しています。まさかの展開に驚き、深いテーマに考えさせられ、そして何より、質の高いエンターテインメントを心から楽しむことができました。
「誰もが知る名作」という評判に違わぬ素晴らしい作品でした。むしろ、なぜもっと早く読まなかったのかと後悔するほどです。でも同時に、今このタイミングで出会えたことにも感謝しています。読書体験は、その時々の自分の状態や経験によって変わるものですから。
光文社古典新訳文庫版は、読みやすい新訳と充実した解説、便利なしおりなど、初めて読む人にも最適な一冊だと思います。海外ミステリ入門として、あるいは古典文学への入り口として、多くの人におすすめしたい作品です。
アガサ・クリスティーの作品はまだまだたくさんあります。『そして誰もいなくなった』『アクロイド殺し』など、他の代表作も読んでみたくなりました。一つの名作との出会いが、次の読書への扉を開いてくれる。これこそが読書の醍醐味だと、改めて感じています。
もしあなたがまだ本作を読んでいないなら、ぜひ手に取ってみてください。90年の時を超えて愛され続ける理由が、きっとわかるはずです。そして読み終えたときには、私と同じように「海外ミステリの古典であり、誰もが知る名作」という言葉に深く頷くことになるでしょう。







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