読み終わった直後の感想を一言で言うと、「最後に何度も何度もひっくり返された」です。麻根重次さんの『シュレディンガーの密室』。
夕木春央さんの『方舟』を読んだときに近い感覚を、久しぶりに味わいました。あのときの「膝から力が抜ける」やつです。ただ、似ているのは感覚だけで、仕掛けの積み方はまったく別物でした。そのあたりを、ネタバレなしで書いていきます。
書籍情報
| 書籍名 | シュレディンガーの密室 |
|---|---|
| 著者 | 麻根重次 |
| 出版社 | 講談社 |
| ページ数 | 320ページ |
| 発売日 | 2026年8月19日 |
| 定価 | 2,035円(税込) |
| ISBN | 978-4-06-544090-2 |
※ページ数・価格は執筆時点の情報です。
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あらすじ(ネタバレなし)
長野の山中にある医学生物研究所が、豪雨による土砂崩れで外界から孤立します。研究所の1階には高濃度の硫化水素が漏れ出し、少しでも吸えば命に関わる状態。その1階の陰圧室に、二人が閉じ込められてしまいます。
二人が生きているのか死んでいるのか、外からは確かめる手段がありません。ドアを開ければ硫化水素が流れ込む。ガスマスクは一つだけ。救助は土砂で道が絶たれていて、当分来ない。しかも閉じ込められた一人は、腎臓移植のドナーとして育てられた少女で、移植を待つ側にも時間の猶予がない。
突入か、静観か。扉を開いた瞬間に、二人の生死が確定する。タイトルの意味はそのままこの状況です。そして帯にあるとおり、この研究所では「連続殺人」が起きます。
読みながら考えていたこと(ネタバレなし)
僕は読んでいる途中の考えをメモしながら読む癖があるので、ここでは「どこで何を疑ったか」だけ書きます。当たったか外れたかは書きません。というより、当たった外れたの次元で読んでいた自分が、最後に丸ごとひっくり返されるのがこの本なので、書いても意味がないんです。
最初に思ったのは、井上真偽さんの『アリアドネの声』に似ている、ということでした。安全な場所にいる人たちが、閉じ込められた人の状況を外からは確かめられない。タイムリミットがある。そして「誰か一人が犠牲になる」選択を迫られる。この構造の緊張感が、序盤からずっと続きます。
次に疑ったのは「身内」です。『方舟』で身内が犯人だったのが強く残っていたので、今回もそこを疑って読んでいました。そして主人公自身が同じ人物を疑い始めたところで、「作者はほとんどの読者がここを疑うと分かって書いているはず。だとしたらこの線は違うのでは」と、一歩引いた読み方に切り替えました。いわゆるメタ読みです。
あとは、作中で「行方不明」とされている人物。ミステリでは、死体が確認されていない人は常に生きている可能性がある駒です。それから、外との唯一の連絡手段が途切れる場面の、途切れ方の不自然さ。ここは「テープを貼る作業の途中で受話器を外したまま倒れるなんてあるか?」と引っかかって、しばらく頭から離れませんでした。
もうひとつ、この本は理系の細部が本当に丁寧です。陰圧室の空気はどう流れるのか、硫化水素はどこに溜まるのか、研究所の設備は非常時にどう振る舞うのか。僕は途中で設備の仕組みを真面目に調べました。調べた結果が作中の描写と噛み合っていて、そこからまた疑いが広がる。読者に調べさせる本です。
そして読み進めるうちに気づくのが、「生死が分からない箱」が一つではなくなっていくことです。密室の二人だけでなく、姿の見えない人が増えていく。観測されるまで確定しない状態が、物語のあちこちに増殖していく。タイトルの構図が多重化していくのを見ているのが、途中からいちばんの楽しみになっていました。
読み終えて(ネタバレなし)
結末には触れません。触れられるのはひとつだけ、この本は一度ひっくり返って終わりではないということです。これは版元が「どんでん返しの果てに密室の扉が開く」と公式に書いているので、言ってよい範囲だと思っています。
ひっくり返ったあとに、さらに仕掛けがある。そのあとにも、まだある。読みながら僕が思い浮かべたのはマトリョーシカでした。開けないと中は観測できない。でも開けば開くほど、驚きが増えていく。観測が、次の観測を生み出す。タイトルの「シュレディンガー」は、設定の説明であると同時に、この本の構造そのものの説明になっています。
『方舟』との違いを言葉にするなら、方舟は「一撃」で、この本は「連打」です。方舟は一発でこちらの足元を崩す。こちらは一段目で崩したあと、その上にさらに段を積んでくる。同じ「やられた」でも、味が全然違いました。
正直に言うと、序盤で立てた予想の中には当たったものもあります。でも問題はそこではありませんでした。当たった、と思って安心した読者を、この本は狙い撃ちにしてきます。
理系のガチ勢が書いたミステリ
読んでいる途中で著者のプロフィールを調べて、納得しました。麻根重次さんは信州大学大学院で進化生物学を専攻された方です。移植の適合や細胞の話が「小道具」ではなく「骨格」として使われている理由が、これで分かりました。専門書と言っても過言ではない密度の生物学設定が、ミステリの仕掛けと一体になっています。
理系出身の作家が書くミステリには、独特の手触りがあります。名古屋大学で工学を教えていた森博嗣さんの『冷たい密室と博士たち』、東大工学部出身の井上真偽さんの『その可能性はすでに考えた』。論理を積み上げる文体と、専門知識を物語の土台に据える書き方。『シュレディンガーの密室』は、間違いなくこの系譜に連なる一冊です。
こんな人におすすめ
- 『方舟』で膝から力が抜けた人(同じ感覚を、別の積み方で味わえます)
- 「どんでん返しは一回で終わり」の作品に物足りなさを感じている人
- クローズド・サークルやタイムリミットものが好きな人
- 森博嗣や井上真偽のような、理系の手触りがあるミステリが好きな人
- 読みながら推理をメモするタイプの人(メモが全部裏切られる快感があります)
逆に、後味の軽いミステリを求めている人には向きません。「生死を確定させる小説」という帯の言葉のとおり、重さはあります。でもその重さごと、読んでよかったと思える一冊でした。最後まで気を抜けない作品が好きなら、夕木春央『楽園』もあわせてどうぞ。
読書のおともに:Silent Breeze
僕は普段、自分で運営しているYouTubeチャンネル「Silent Breeze」のBGMを流しながら本を読んでいます。この本は密室の中と外を行き来する構成なので、静かなカフェの音があると、外側にいる登場人物たちと同じ空気で読める気がします。
おわりに
扉を開けるまで、中は分かりません。開けたら次の扉がある。それを何度も繰り返して、最後の扉を開けたとき、自分が読んでいたものが何だったのかが分かる。そういう本です。
読み終わった人と答え合わせがしたくてたまらないのですが、それをブログに書くわけにはいかないので、ここまでにします。ぜひ読んでください。そして、読んだら教えてください。一緒に観測しましょう。






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